巷によく出てくる「自己責任論」というもの、これは私、大嫌いである。例えばイラクで人質になった方々をバッシングするのに持ち出された「自己責任論」も最悪だったし、新自由主義における一部の成功者がよく口にする「自己責任論」ってのも大嫌いだ。双方に共通しているのは社会や国家が担うべき“義務”を丸投げして個人に押しつけている点であり、こんなのがまかり通りのならいっそのこと国家なんていらないだろう。
国民や弱者に手を差し伸べないような国家システムなんぞはできそこないだ。
本来、個人個人が適切な情報を得ることができて、それに基づいて「自己決定」できる社会が理想であって、その結果、仮に失敗して生死に関わるような状況に陥ってしまった時に手を差し伸べて個人を救うのが国家の役割=義務である。またその構成員である国民には救済を受ける権利がある。それがちゃんと機能している国家というのはやり直しがきく社会とも言える訳で、自殺が少ないような気がする。
とはいえこれはあくまでも国家と個人との関係における約束事であって、個人対個人についてはまた別だ。例えば、誰かが破算しそうだからといって友人が援助するには限界があるし、精神的な支えにはなれても援助は無理だ、という人がほとんどだろう。特に金の切れ目は縁の切れ目っていう言葉もあるれど、ちょっと揉めて亀裂が入れば人間関係なんていうものは崩壊することもある訳で、相互扶助にはやはり限界がある。
私が一番嫌いなのは、この相互扶助、つまり友人や周囲の人の善意や優しさに甘えて「死にたい」とか「死ぬ死ぬ」をやる人間だ。本当に自殺に踏み切る人間というのは誰にも相談できずに静かにそこに踏み出すことが多い。だからこそ、そこに気づいてあげることのできなかった周囲は悔しいし、悲しい訳であって、とてもやるせない気持ちになる。それに対して、大っぴらに「死ぬ死ぬ」やる人間というのは確かに死にたいような心境なのだけど、そのことを周囲に漏らすことによって、“止めて貰いたい”もしくは“構って欲しい”という思いがあるのだ。そこに私なんかは狡さを感じる。
なぜ狡いと分かるか?というと、私自身、10代の頃にリストカットもやったしサイレースを何錠も飲んで自殺を試みたことがあるけれど、結局それは、親に自分の状態、自分の気持ち、自分の苦しさを分かって欲しいからそれをやっていたのだ、と。今となるとそれがよく分かるからだ。だからこそ、20で急性アル中でぶっ倒れた時もそうだけども親に迷惑かけたなぁとか思う訳で、、、とはいえ、あの時の私はそうするしかなかったし、若かったなぁと。。。
そういう経緯があるからこそ、人に「死にたい」とか「死ぬ」とかやることは、相手に対する“脅し”だと分かるんで、卑怯だな、と。そんな風に思う。若い子はしょうがないとも思うのだ、自己が曖昧で誰かしらに助けを求めてSOSを出す場合もあるし、それは成長過程の一部なんだとも思う。また大人でも、ごく親しい人にそれをやるのなら分かる、止めて欲しいんだな、と。しかし、大の大人が家族以外の人間相手に“大っぴら”にそれをやるのは人間関係におけるタブーだとも思う訳で、そんなのは相互扶助の精神でカバー仕切れるものじゃないし、手を差し伸べられるようなものでもない。
まぁ、私は特に優しくないのだろう、他のアナキストはもっと優しいと思う。
ぶっちゃけ、自殺も自己決定なんだからそんなに死にたければ勝手に死ねばいいとも思うのだ。死ぬということは、親しい人や関わってきた人を深く悲しませることになるし、家族を含めて残された人の心を傷つけることになる。その重みを全部背負うつもりがあるのなら、誰かが「死にたい」とか「死ぬ」とか言っていても私は特に止める気はない。それはその人の自己決定だとも思う訳で、それこそ自己責任で死ねばいいのだ。自殺をする自由も当然あるし、本人が自己決定において下したその決断は、どんなに親しい人でも家族でも恋人でも止めることはできない。とはいえ本当に誰かが自殺したとすれば「自分勝手な奴だ」と、私はそう考える。何故なら自分のことしか考えていない訳なのだから。
国民や弱者に手を差し伸べないような国家システムなんぞはできそこないだ。
本来、個人個人が適切な情報を得ることができて、それに基づいて「自己決定」できる社会が理想であって、その結果、仮に失敗して生死に関わるような状況に陥ってしまった時に手を差し伸べて個人を救うのが国家の役割=義務である。またその構成員である国民には救済を受ける権利がある。それがちゃんと機能している国家というのはやり直しがきく社会とも言える訳で、自殺が少ないような気がする。
とはいえこれはあくまでも国家と個人との関係における約束事であって、個人対個人についてはまた別だ。例えば、誰かが破算しそうだからといって友人が援助するには限界があるし、精神的な支えにはなれても援助は無理だ、という人がほとんどだろう。特に金の切れ目は縁の切れ目っていう言葉もあるれど、ちょっと揉めて亀裂が入れば人間関係なんていうものは崩壊することもある訳で、相互扶助にはやはり限界がある。
私が一番嫌いなのは、この相互扶助、つまり友人や周囲の人の善意や優しさに甘えて「死にたい」とか「死ぬ死ぬ」をやる人間だ。本当に自殺に踏み切る人間というのは誰にも相談できずに静かにそこに踏み出すことが多い。だからこそ、そこに気づいてあげることのできなかった周囲は悔しいし、悲しい訳であって、とてもやるせない気持ちになる。それに対して、大っぴらに「死ぬ死ぬ」やる人間というのは確かに死にたいような心境なのだけど、そのことを周囲に漏らすことによって、“止めて貰いたい”もしくは“構って欲しい”という思いがあるのだ。そこに私なんかは狡さを感じる。
なぜ狡いと分かるか?というと、私自身、10代の頃にリストカットもやったしサイレースを何錠も飲んで自殺を試みたことがあるけれど、結局それは、親に自分の状態、自分の気持ち、自分の苦しさを分かって欲しいからそれをやっていたのだ、と。今となるとそれがよく分かるからだ。だからこそ、20で急性アル中でぶっ倒れた時もそうだけども親に迷惑かけたなぁとか思う訳で、、、とはいえ、あの時の私はそうするしかなかったし、若かったなぁと。。。
そういう経緯があるからこそ、人に「死にたい」とか「死ぬ」とかやることは、相手に対する“脅し”だと分かるんで、卑怯だな、と。そんな風に思う。若い子はしょうがないとも思うのだ、自己が曖昧で誰かしらに助けを求めてSOSを出す場合もあるし、それは成長過程の一部なんだとも思う。また大人でも、ごく親しい人にそれをやるのなら分かる、止めて欲しいんだな、と。しかし、大の大人が家族以外の人間相手に“大っぴら”にそれをやるのは人間関係におけるタブーだとも思う訳で、そんなのは相互扶助の精神でカバー仕切れるものじゃないし、手を差し伸べられるようなものでもない。
まぁ、私は特に優しくないのだろう、他のアナキストはもっと優しいと思う。
ぶっちゃけ、自殺も自己決定なんだからそんなに死にたければ勝手に死ねばいいとも思うのだ。死ぬということは、親しい人や関わってきた人を深く悲しませることになるし、家族を含めて残された人の心を傷つけることになる。その重みを全部背負うつもりがあるのなら、誰かが「死にたい」とか「死ぬ」とか言っていても私は特に止める気はない。それはその人の自己決定だとも思う訳で、それこそ自己責任で死ねばいいのだ。自殺をする自由も当然あるし、本人が自己決定において下したその決断は、どんなに親しい人でも家族でも恋人でも止めることはできない。とはいえ本当に誰かが自殺したとすれば「自分勝手な奴だ」と、私はそう考える。何故なら自分のことしか考えていない訳なのだから。
GWのお楽しみは毎年のことながらデモである。
取りあえず予定としては5月にあるものを2つほど出るつもりなのだけど、今月末のは微妙な感じ。行ってきたらここに色々と載せたいと思う。あとそうそう、、、RLLさんのところに頼んでいたTシャツができあがったそうなので、それも行った時に受け取ってくる予定。でもって当ブログにおいても素敵なTシャツをご紹介したいと思う。そんでGWの後半は映画「靖国」でも見にいこうかな、とね。あとは、、、あとはね、えーと…
特に予定がないっ(爆)
つか、相変わらず色気がねぇー!
取りあえず予定としては5月にあるものを2つほど出るつもりなのだけど、今月末のは微妙な感じ。行ってきたらここに色々と載せたいと思う。あとそうそう、、、RLLさんのところに頼んでいたTシャツができあがったそうなので、それも行った時に受け取ってくる予定。でもって当ブログにおいても素敵なTシャツをご紹介したいと思う。そんでGWの後半は映画「靖国」でも見にいこうかな、とね。あとは、、、あとはね、えーと…
特に予定がないっ(爆)
つか、相変わらず色気がねぇー!

I ドクロ G8 上から12個目をチェック
白い合皮にステンシルプリントしただけのものなのだけど、アイディア次第で色々使えるパッチ。鞄や服にピンで好きな場所にルーズに止めるのがオススメかも。その方が砕けたアナーキー具合を表現できるし、使い回しが効くんで楽しいヽ(´ー`)ノ
洞爺湖サミットの関係もあって、アンチG8の表記は目立つこと請け合い!
悪目立ちして警察から職質されても私は責任を負いません(ぇ
いや、そのくらい今の警察はG8アレルギーを起こしているんで念のために注意を。ていうのは冗談でもありネタでもあり本気でもあるのだけど、昨今は赤狩りならぬ反グロ狩りが主流なんで、いまこそ憲法19条、及び21条を、ファッションやグッズで粋に体現する時代だっ!という訳で表現のテロリズムは平和的なものである。
そろそろ5月だしお祭りもありますからねー。私は黒旗にピンで適当に引っ付ける予定です、つうか新発売の時にちゃっかり買わされました(爆)まぁ、200円なんでお買い得ですから、皆さんもIRAに行った時にゲットするか、デモで私なんかを見かけた時は声かけて下さい〜友人を呼んできます。つうか、私もなんか作って売ろうかしらん。
I ドクロ G8 上から12個目 定価200円
アナキストの多くが無神論者or無宗教者だとも思う。神や仏というのは信仰上の権威でもあって、その権威を否定するのがアナキストの基本的なスタンスだ。どんな宗教でもそうだが、時間が経てば経つほど開祖の理想からはかけ離れ、俗化してくる。葬式仏教なんていうのは文字通りそうだ。宗教的慣習そのものが金と絡んで人間を抑圧し出す訳で、その嫌らしさというのはアナキストでなくても知っているような気がする。葬式代、戒名代なんかもそうだけど、、、それ以外にも寺は檀家から維持費として金を取る。私の母親なんかは常にそれを私に愚痴ている訳なんだけど、ならば寺から撤収しろ!って感じだ。しかし、先祖代々を“人質”に取られているような感覚があるもんだから、それもできないというのが本音みたい。私の代になったら信仰なんぞ放り出してやる、はははっ!
とはいえ私はいつも思うのだが、究極のアナキストというのは釈迦=仏陀であるような気がする。
キリストもそうだけど、宗教の開祖というのはみな魅力的である。ことに仏陀のストイックさというのは私を魅了するのだ。一切の執着を絶った“悟り”の境地というのは、支配することなく、また、支配されることもなく。国家や家族というもの=愛にさえ捕らわれることなく。その様というのはアナキズム的だなぁと思うのだ。また、悟りの境地は欲望を否定している訳ではない。何故なら欲望そのものが生じない領域に達しているのが悟りであって、決して欲望を否定=抑圧している訳ではないから、その点においてもアナキズムの概念から外れることもない。自由な状態で一切の執着を生じない訳だ、なんと魅力的なんだろう!と、そう思う。また、キリスト教において人間は神になることはできないが、仏教は人が仏になることを目指している点においても私は好きだ。極めて個人主義的というか、ストイックにして何にも捕らわれないという姿勢が魅力的だ。
ああ、とはいえ私は原始仏教の信者という訳ではないですよ?別に修行して悟りを開こうという訳でもないし、そんな面倒くさいことは御免です。仏陀の姿や悟りという概念ににシンパシーを感じるというだけであって、なにせぐうたらですからねぇ。そのくせ、支配と抑圧に対しては敏感なロクデナシヽ(´ー`)ノまぁ、それが私です。
とはいえ私はいつも思うのだが、究極のアナキストというのは釈迦=仏陀であるような気がする。
キリストもそうだけど、宗教の開祖というのはみな魅力的である。ことに仏陀のストイックさというのは私を魅了するのだ。一切の執着を絶った“悟り”の境地というのは、支配することなく、また、支配されることもなく。国家や家族というもの=愛にさえ捕らわれることなく。その様というのはアナキズム的だなぁと思うのだ。また、悟りの境地は欲望を否定している訳ではない。何故なら欲望そのものが生じない領域に達しているのが悟りであって、決して欲望を否定=抑圧している訳ではないから、その点においてもアナキズムの概念から外れることもない。自由な状態で一切の執着を生じない訳だ、なんと魅力的なんだろう!と、そう思う。また、キリスト教において人間は神になることはできないが、仏教は人が仏になることを目指している点においても私は好きだ。極めて個人主義的というか、ストイックにして何にも捕らわれないという姿勢が魅力的だ。
ああ、とはいえ私は原始仏教の信者という訳ではないですよ?別に修行して悟りを開こうという訳でもないし、そんな面倒くさいことは御免です。仏陀の姿や悟りという概念ににシンパシーを感じるというだけであって、なにせぐうたらですからねぇ。そのくせ、支配と抑圧に対しては敏感なロクデナシヽ(´ー`)ノまぁ、それが私です。
うぅむ、、、鳩山は個人的に嫌いでやんす。
素朴な疑問なのだが、凶悪犯罪を犯したからこそ、その死に対して死を持って償うべしというのが死刑であって、それこそが存置派の基本であるようにも思う。つまり、「幸福に生きていた人間の生命を犯人が害したこと」を最大の罪と考え、それを償えるのは命のみである、というのが存置派の基本だ。
そう、殺人は絶対悪であって、人を死に追いやることは罪なのだ。
だとしたら、その自らの罪を死を持ってして償った死刑囚の“死”というものも重たいと考え、罪を償った死刑執行後の死刑囚に対しては「人として」手を合わせるのが筋だと思うのだけど、そうではない人間がネットでは多数なので、いつもの事ながら不愉快だったりする。彼らの多くが死刑執行を手放しに喜び、場合によっては嘲笑するようなケースが多い。
そのことについて、自分なりにちょっと考えてみた。
昔、我が国には士農工商という身分があった訳だが、その下には「えた・非人」という“人ではない存在”があった。インドのカーストもそうだが、最下位の更に下に不可触賎民という人とさえ認められない存在がある。権力側、もしくは上の支配側にいる人間が、その身分制度を維持する時に、最下位の人間を落ち着かせる為にも、その更に下に“人でもはない”存在を置くというカラクリだ。権力側が自分よりも下位の存在を支配する為に与える“アメ”の存在である(苦笑)もしくは、自分よりも下があるのだと納得したい最下位の人間が更に下を作ったのか…?この辺は色々な説があるようにも思う。
死刑判決を受けた後の死刑囚の扱いやら蔑み方を見ていると、それと似たようなものを感じることが多い。
リアル社会で何らかの劣等感や不満を抱いていたり、或いは反対に選民意識に捕らわれていたりする人間=勝ち負けや上下関係をやたら気にしている人間というのは、自分よりも下位の存在を位置づけることによって、優越感を得、満足する。それは、嫌韓厨が中国人や韓国人を見下すのと同じだとも感じる。つまり、現代版のえた・非人ともいえる死刑囚に対して“生きている価値はナシ、はやく吊せ”と罵倒し、刑執行後は、その死さえも小馬鹿にして嘲笑することによって、自分は最下位じゃない、自分はそんな犯罪を犯さずとも普通に生きている人間なんだよ、と。自身を肯定し、死刑囚を嘲笑し、チンケなプライドを維持している、と。
ちょっと前、沖縄の米兵によるレイプ事件があったが、あの時に少女を叩いた下衆共を相手にしていて思ったのは、ネット上にかつての“ムラ社会根性”が発現していたな、ということだ。道徳主義的に少女の貞操観念のみを責め立てるそれというのは、市民社会において重視されるべき女性の人権を無視した姿勢であって、あれはムラ社会根性そのものだった。そして今回、死刑囚はえた・非人という訳だ。ネットというのは理性が消えて集団化しやすい。その集団化した日本人のメンタリティというのは、若年層であってもムラ社会根性を抱え、無意識の領域では未だに「えた・非人」を必要とし、上下関係を意識しているという意味で階級制が染みついている。
ああ、存置派であるのならば、奪った命=生存権に対する償いをしろ!というのならまだ分かるのだが、その償いをした後の骸にまで罵倒や嘲笑を向けるという姿勢に、今回は辟易とした。これはもう、犯罪による人権侵害を死をもってして裁く以前の問題である。何故なら死を軽んじる姿勢というのは、死刑が必要であるという主張と矛盾するからだ。そこには人の死や生命に対する尊厳というものが皆無であり、ネットでのやり取りに限界を感じた。
そもそもアナキストという一風変わった個人主義者というのは、国家による最大の人権侵害、即ち、死刑と戦争は一切、認めない。自分にできない死刑執行という権力を国家に与えるということは、国家によって支配されるということであり、私はそれを認められないし、認めるつもりはないのである。
素朴な疑問なのだが、凶悪犯罪を犯したからこそ、その死に対して死を持って償うべしというのが死刑であって、それこそが存置派の基本であるようにも思う。つまり、「幸福に生きていた人間の生命を犯人が害したこと」を最大の罪と考え、それを償えるのは命のみである、というのが存置派の基本だ。
そう、殺人は絶対悪であって、人を死に追いやることは罪なのだ。
だとしたら、その自らの罪を死を持ってして償った死刑囚の“死”というものも重たいと考え、罪を償った死刑執行後の死刑囚に対しては「人として」手を合わせるのが筋だと思うのだけど、そうではない人間がネットでは多数なので、いつもの事ながら不愉快だったりする。彼らの多くが死刑執行を手放しに喜び、場合によっては嘲笑するようなケースが多い。
そのことについて、自分なりにちょっと考えてみた。
昔、我が国には士農工商という身分があった訳だが、その下には「えた・非人」という“人ではない存在”があった。インドのカーストもそうだが、最下位の更に下に不可触賎民という人とさえ認められない存在がある。権力側、もしくは上の支配側にいる人間が、その身分制度を維持する時に、最下位の人間を落ち着かせる為にも、その更に下に“人でもはない”存在を置くというカラクリだ。権力側が自分よりも下位の存在を支配する為に与える“アメ”の存在である(苦笑)もしくは、自分よりも下があるのだと納得したい最下位の人間が更に下を作ったのか…?この辺は色々な説があるようにも思う。
死刑判決を受けた後の死刑囚の扱いやら蔑み方を見ていると、それと似たようなものを感じることが多い。
リアル社会で何らかの劣等感や不満を抱いていたり、或いは反対に選民意識に捕らわれていたりする人間=勝ち負けや上下関係をやたら気にしている人間というのは、自分よりも下位の存在を位置づけることによって、優越感を得、満足する。それは、嫌韓厨が中国人や韓国人を見下すのと同じだとも感じる。つまり、現代版のえた・非人ともいえる死刑囚に対して“生きている価値はナシ、はやく吊せ”と罵倒し、刑執行後は、その死さえも小馬鹿にして嘲笑することによって、自分は最下位じゃない、自分はそんな犯罪を犯さずとも普通に生きている人間なんだよ、と。自身を肯定し、死刑囚を嘲笑し、チンケなプライドを維持している、と。
ちょっと前、沖縄の米兵によるレイプ事件があったが、あの時に少女を叩いた下衆共を相手にしていて思ったのは、ネット上にかつての“ムラ社会根性”が発現していたな、ということだ。道徳主義的に少女の貞操観念のみを責め立てるそれというのは、市民社会において重視されるべき女性の人権を無視した姿勢であって、あれはムラ社会根性そのものだった。そして今回、死刑囚はえた・非人という訳だ。ネットというのは理性が消えて集団化しやすい。その集団化した日本人のメンタリティというのは、若年層であってもムラ社会根性を抱え、無意識の領域では未だに「えた・非人」を必要とし、上下関係を意識しているという意味で階級制が染みついている。
ああ、存置派であるのならば、奪った命=生存権に対する償いをしろ!というのならまだ分かるのだが、その償いをした後の骸にまで罵倒や嘲笑を向けるという姿勢に、今回は辟易とした。これはもう、犯罪による人権侵害を死をもってして裁く以前の問題である。何故なら死を軽んじる姿勢というのは、死刑が必要であるという主張と矛盾するからだ。そこには人の死や生命に対する尊厳というものが皆無であり、ネットでのやり取りに限界を感じた。
そもそもアナキストという一風変わった個人主義者というのは、国家による最大の人権侵害、即ち、死刑と戦争は一切、認めない。自分にできない死刑執行という権力を国家に与えるということは、国家によって支配されるということであり、私はそれを認められないし、認めるつもりはないのである。