否定と批判は違う。
“否定”というのは、「お前なんてのはいらない、不要だ」もしくは「間違っていてどうしようもない、なくしてしまえ」といった具合に、存在そのものを否定するということだ。それに対して“批判”というのは、「そこは直した方がいいよ、繰り返してはならない」であるとか、「誤っている部分は正していこう」といった具合に、間違っていたり不十分だった部分を反省してよりよくする為の苦言だ。
否定というのは容赦ない切り捨てであるが、批判というのは愛のある肯定だ。
賢帝は信頼して重用している臣下の「苦言=批判」を受けれて自己を正そうとするが、愚帝や暴君は、愛のあるそれを“否定”であると勘違いして、その臣下のことを遠ざけたり、牢にぶち込んだり切り捨てたりしてその存在を「全否定」する。要するに単純で誤解しやすい人間や、愚かな人間は批判を否定だと勘違いして反発してしまい、過剰反応して自分がされたと感じる否定をそのまま返すことになる。
歴史観の問題で保守派の人とぶつかるのは、この否定と批判の認識の違いである。保守派の人の多くは私なんかの“批判”を“否定”だと勘違いして、論争になることが多い。
例えば、戦って死んだ先祖=兵隊さんの死は無駄死にだったのか?それとも輝かしい死だったのか?
左派やリベラルが「死なせなくても良い命まで散らせたのだから、輝かしい死であるどころか、繰り返してはならないことである」、と。こう主張すると、彼らの死を無駄死に扱いされたような感覚に陥るのか?「先祖が懸命戦ったことによって今の私たちの生活はある。そのことを誇りに思うべきだ」という具合に英雄視しだす。そこまでならまだ良いのだが、更に妄想を膨らませて、左派やリベラルが兵士たちを全否定しているかのような論調でこき下ろすケースをよく見かける。
私なんかが言いたいのは、別に先祖を否定している訳でもなければ、戦って散った兵士達を貶めている訳でもなんでもないのだ。否定ではなくて間違っていた部分を批判し、二度と繰り返さないように苦言を呈しているのに、それを“否定”だと勘違いされて反日サヨク扱いされてしまうのだから、昔でいうのなら、愚帝が「けしからん!手打ちにしてくれる!」と叫んで乱心して騒いでいるようなものだから溜息しか出てこない。
この歴史観の問題については靖国を考えた時に浮き彫りになるような気がする。死んだ兵士だけではなくて全ての戦死者を追悼して鎮魂し、二度と繰り返さない為にも、靖国がかつての戦争で担った役割は無視できないという具合に過去を批判して苦言を呈している私らに対して、当時、「靖国で会おう」といって散っていった兵士たちの鎮魂の為にも神社を参拝したいという保守側の人たちがいる。この違いは歴史をみる視点の違いでもあり、私らが現代の視点から過去に対して苦言を呈しているのに対して、保守派の人たちの多くが未だに過去のままだ。
苦言を呈して批判をするということは「肯定している」ことが大前提であって、過去の肯定なくして批判も苦言も呈することはできない。つまり自虐でもなんでもないのに“自虐史観”だとか言われてしまうことについてはここ数年、いくら考えても理解できないし、どこが自虐なのか?まるで分からない。あの当時は一生懸命戦ったけれども、悪いこともしてしまった。結果、反省すべき点、繰り返してはならない点がある。こういう分析や検証がどうして自虐になるのか?まるで分からない。
自分が見えずに過去を反省できない人間というのは、幾度でも同じ過ちを繰り返すことになるし、それは、人間の集合体である国であっても同じだろう。
国が誕生してから現在にいたるまで、その悠久の歴史の中で誤ったことをしたことのない国など世界のどこを見回しても皆無だろう。あらゆる国が過ちや悲惨な過去を引きずっている。けれども、その過ちや暴走を反省して検証する姿勢があったからこそ、色々な発明や発展があったのだとも思う。人権というものの発明もそうだし、民主主義や立憲主義の発明もそうだろう。なのに日本だけが反省も検証もしないで自己肯定だけをしている様というのは見るに堪えないし、それは、人間として、もしくは国としての進歩を否定するようなものだ。
この日記は、歴史観が単純で見るに堪えない麻生氏が自民党総裁になったことに対する、祝辞である。一国の総理となる人間には、単純な自信などではなく、自己肯定するのと同時に批判を受け入れて自己反省ができるだけの広い器が必要であるし、少なくとも批判と否定の区別がちゃんとできる賢帝の資質を持った人であって欲しい。私は彼を否定するのではなくて批判する内容を書いたつもりなのだが、どうであろうか…?彼の政治的資質が、歴史観と同様でないことを祈る。
“否定”というのは、「お前なんてのはいらない、不要だ」もしくは「間違っていてどうしようもない、なくしてしまえ」といった具合に、存在そのものを否定するということだ。それに対して“批判”というのは、「そこは直した方がいいよ、繰り返してはならない」であるとか、「誤っている部分は正していこう」といった具合に、間違っていたり不十分だった部分を反省してよりよくする為の苦言だ。
否定というのは容赦ない切り捨てであるが、批判というのは愛のある肯定だ。
賢帝は信頼して重用している臣下の「苦言=批判」を受けれて自己を正そうとするが、愚帝や暴君は、愛のあるそれを“否定”であると勘違いして、その臣下のことを遠ざけたり、牢にぶち込んだり切り捨てたりしてその存在を「全否定」する。要するに単純で誤解しやすい人間や、愚かな人間は批判を否定だと勘違いして反発してしまい、過剰反応して自分がされたと感じる否定をそのまま返すことになる。
歴史観の問題で保守派の人とぶつかるのは、この否定と批判の認識の違いである。保守派の人の多くは私なんかの“批判”を“否定”だと勘違いして、論争になることが多い。
例えば、戦って死んだ先祖=兵隊さんの死は無駄死にだったのか?それとも輝かしい死だったのか?
左派やリベラルが「死なせなくても良い命まで散らせたのだから、輝かしい死であるどころか、繰り返してはならないことである」、と。こう主張すると、彼らの死を無駄死に扱いされたような感覚に陥るのか?「先祖が懸命戦ったことによって今の私たちの生活はある。そのことを誇りに思うべきだ」という具合に英雄視しだす。そこまでならまだ良いのだが、更に妄想を膨らませて、左派やリベラルが兵士たちを全否定しているかのような論調でこき下ろすケースをよく見かける。
私なんかが言いたいのは、別に先祖を否定している訳でもなければ、戦って散った兵士達を貶めている訳でもなんでもないのだ。否定ではなくて間違っていた部分を批判し、二度と繰り返さないように苦言を呈しているのに、それを“否定”だと勘違いされて反日サヨク扱いされてしまうのだから、昔でいうのなら、愚帝が「けしからん!手打ちにしてくれる!」と叫んで乱心して騒いでいるようなものだから溜息しか出てこない。
この歴史観の問題については靖国を考えた時に浮き彫りになるような気がする。死んだ兵士だけではなくて全ての戦死者を追悼して鎮魂し、二度と繰り返さない為にも、靖国がかつての戦争で担った役割は無視できないという具合に過去を批判して苦言を呈している私らに対して、当時、「靖国で会おう」といって散っていった兵士たちの鎮魂の為にも神社を参拝したいという保守側の人たちがいる。この違いは歴史をみる視点の違いでもあり、私らが現代の視点から過去に対して苦言を呈しているのに対して、保守派の人たちの多くが未だに過去のままだ。
苦言を呈して批判をするということは「肯定している」ことが大前提であって、過去の肯定なくして批判も苦言も呈することはできない。つまり自虐でもなんでもないのに“自虐史観”だとか言われてしまうことについてはここ数年、いくら考えても理解できないし、どこが自虐なのか?まるで分からない。あの当時は一生懸命戦ったけれども、悪いこともしてしまった。結果、反省すべき点、繰り返してはならない点がある。こういう分析や検証がどうして自虐になるのか?まるで分からない。
自分が見えずに過去を反省できない人間というのは、幾度でも同じ過ちを繰り返すことになるし、それは、人間の集合体である国であっても同じだろう。
国が誕生してから現在にいたるまで、その悠久の歴史の中で誤ったことをしたことのない国など世界のどこを見回しても皆無だろう。あらゆる国が過ちや悲惨な過去を引きずっている。けれども、その過ちや暴走を反省して検証する姿勢があったからこそ、色々な発明や発展があったのだとも思う。人権というものの発明もそうだし、民主主義や立憲主義の発明もそうだろう。なのに日本だけが反省も検証もしないで自己肯定だけをしている様というのは見るに堪えないし、それは、人間として、もしくは国としての進歩を否定するようなものだ。
この日記は、歴史観が単純で見るに堪えない麻生氏が自民党総裁になったことに対する、祝辞である。一国の総理となる人間には、単純な自信などではなく、自己肯定するのと同時に批判を受け入れて自己反省ができるだけの広い器が必要であるし、少なくとも批判と否定の区別がちゃんとできる賢帝の資質を持った人であって欲しい。私は彼を否定するのではなくて批判する内容を書いたつもりなのだが、どうであろうか…?彼の政治的資質が、歴史観と同様でないことを祈る。
I am PMS !!Tシャツ
RLLさんのサイトより
女性が性的なことを、ましてや自分の身体を支配している現象を大っぴらに、自由に言えない社会のどこが自由なんだ?と思う今日この頃。特に生理っていうのはウザイ以外の何ものでもない。なのに、女に生まれたら否応ナシにそれに支配されてしまう。生理は「子どもを産む機能だから大切に」って教えられるし、「子宮なんて要らない」、「女になんて生まれたくなかった」とか言えば、男どもには残念そうにされるし、親は親で悲しそうな顔をする始末。
そうされれば、なんか自分が悪いことをいったか?悪いことをしたか、悪い考え方を持っているのか?という具合に自己嫌悪に陥るし、自己卑下してしまえば今度は立ち直る為にもその反発から女性性の否定に至ってしまう。
とはいえ、不快な現象を好きになれないものは好きになれないし、それでも女性であるという枷を脱ぎ捨てることはできない。結果、後生大事にしていなくてはならない訳で、これは自分自身が女性性に支配されている以外の何ものでもないことの証拠だ。とはいえ、単に支配されるのなんて真っ平だから、私は平然と生理だろうとsexに関することだろうと、開けっぴろげに主張してしまうけど(笑)男どもや家族の感覚なんてのは関係なく、不快なモノを不快だと正直に主張するのは自己統治の基本だろう。そう言える社会が理想だと思う今日この頃。
生理前だよ、不快なんだよ、このコノヤロウ!って叫ぶ代わりにこのTシャツを着るのが良いと思う(笑)
RLLさんのサイトより
女性が性的なことを、ましてや自分の身体を支配している現象を大っぴらに、自由に言えない社会のどこが自由なんだ?と思う今日この頃。特に生理っていうのはウザイ以外の何ものでもない。なのに、女に生まれたら否応ナシにそれに支配されてしまう。生理は「子どもを産む機能だから大切に」って教えられるし、「子宮なんて要らない」、「女になんて生まれたくなかった」とか言えば、男どもには残念そうにされるし、親は親で悲しそうな顔をする始末。
そうされれば、なんか自分が悪いことをいったか?悪いことをしたか、悪い考え方を持っているのか?という具合に自己嫌悪に陥るし、自己卑下してしまえば今度は立ち直る為にもその反発から女性性の否定に至ってしまう。
とはいえ、不快な現象を好きになれないものは好きになれないし、それでも女性であるという枷を脱ぎ捨てることはできない。結果、後生大事にしていなくてはならない訳で、これは自分自身が女性性に支配されている以外の何ものでもないことの証拠だ。とはいえ、単に支配されるのなんて真っ平だから、私は平然と生理だろうとsexに関することだろうと、開けっぴろげに主張してしまうけど(笑)男どもや家族の感覚なんてのは関係なく、不快なモノを不快だと正直に主張するのは自己統治の基本だろう。そう言える社会が理想だと思う今日この頃。
生理前だよ、不快なんだよ、このコノヤロウ!って叫ぶ代わりにこのTシャツを着るのが良いと思う(笑)
mixiに参加されている方はぜひ「日本人はなぜ多重人格なのか」というコミュを覗いてみて欲しい。そこに「日本語は曖昧な言語か」というトピが立っていて、その全てが興味深い。その中の書き込みに、日本人特有の「世間様」という感覚について秀逸な書き込みがあって、色々と考えさせられた。
要約すれば、日本人が何かしらお詫びをするのは、その原因となったことが「物事の真理」や「社会正義」に反するからお詫びするのではなくて、「世間様を騒がせたから」お詫びするのだ、という内容。つまり日本人は、「物事の真理」や「社会正義」に基づいて行動するというよりも、世間を騒がせないように行動することを優先する、と。そういう書き込みである。
私自身、日本人社会の中で、日本人の輪の中で一番違和感があって、特に生きにくさを感じさせるものが“世間様という価値観”だったりする。大相撲における「大麻問題」を取り上げてみよう。
大麻を吸うことが悪いのかどうか?
多くの人が違法だから吸ったら罰せられるとは思っていても、煙草と比較した場合の毒性も低い訳だし、どうして大麻だけがターゲットになっているのか?という素朴な疑問を同時に抱えているように思う。要するに、吸った本人も含めて大麻の吸飲が社会正義上、絶対悪であると考えていないのに、物事の真理として大麻の吸飲が悪であるという絶対的な答えを導き出せずにいるのに、それでも、大麻の吸飲で逮捕されるようなことに至れば、「世間様を騒がせたこと」に対して、世間様やマスコミはお詫びというような処置を暗黙の了解のうちに望む。
法律よりも、世間様を騒がしたことの方が重たいのですね、と。
この世間体を取り繕って、頑なに名誉を守ろうとする組織や人というのは、往々にして腐り始めていることが多い。中身に蛆がわき始めているからこそ、外面という世間体ばかりを気にするのだ。中身と外側が一致していればまだ良いのだけど、中身と外側の見たくれの不一致という問題は、日本のあらゆる組織において閉塞感をもたらしているし、不正を蔓延らせているし、社会正義の追求をおざなりにさせている。社会保険庁だってそうだろう。グリーンピアみたいなのをボンボン立ててた時に、あの外面に騙されて中身の腐り具合を追求せずに、世間様=国民はあれでヨシとしてきたから、あんなになったのだ。でもって世間様がみんなで悪い!と言い出せば今みたいになる。実に単純で気に入らない。
大麻の吸引が絶対悪であるということを証明し、だからこそ、事件を起こした力士は相撲界から消えろという論理を明確に構築できる人間はいるのか?いたらお目にかかりたい。個人使用が認められているEU諸国の存在がある以上、その時点でそれは不可能だろう。単に日本国内で違法なことをしてしまったというだけのことだ。そして、違法なことが必ずしも悪だという証明にはならない。例えば、医師免許のない人間が無免許で手術をして人の命を助けたとして、その人は法律に反したのだから裁きを受ける必要があっても、人の命を助けたのだから悪行をはたらいたとは言えないだろう。法律なんていうのはそんなものだ、一定の決まり事にすぎない。
そして、慣習というのもまた、その集団における、その時代における「みんなの平均的な意見」に過ぎないわけで、それをもってして、絶対的なものであると証明することは更に不可能だ。何故なら日本には大麻を吸引していた時代というのがあり、ましてや大麻は神事にも利用されていたのだから、時代時代によってコロコロ変わってきた大麻に対する日本人の考え方が絶対的な真理とは言い難いだろう。変わる可能性のあるものは物事の真理ではない。その時代におけるみんなの意見=慣習というのが如何に曖昧なものであるのか?証明しているようなものだ。
いずれにせよ私は、世間様、大勢が是とする考え、伝統的慣習。こういう不確かなものを大衆やマスコミが振りかざして、そこからはみ出した個人に謝罪を要求し、それを受け入れない人間をはじき出すような器の狭い集団主義根性っていうのが大嫌いだ。
アキバの殺傷事件でも、物事の真理を考えるのならご両親が本当に詫びる必要があったのは被害者自身と被害者の家族に対してであったはずなのに、先ずは第一に世間様に対して彼の両親は詫びた。三田圭子なんかも次男が覚醒剤でアフォをやる度にマスコミを通じて、世間様に対してお詫びしている。これは結局、彼ら自身が世間様からはみ出しては生きていけないから行っている保身行為に過ぎず、真の謝罪でもなんでもないだろう。相撲協会もまた、解雇・追放という処分を下さなくては世間様に対して立つ瀬がないと判断し、大相撲の名誉を保てないと判断したからこそ、解雇・追放という行為を通じて世間様に対して詫びたのだ。
最近思うのは、日本社会を覆っている窒息しそうなほど嫌な閉塞感の正体というのは、日本人自身が抱えている、「世間様」という独自の感覚ではないかと思う。
その世間様を意識して保身を行うことによって組織や集団はどんどん腐ってゆき、次々に不正や排除が生まれて真の社会正義は遠のいてゆく。こんなのは個人主義の社会でもなんでもない。以前の私は保守的な価値観や右的な価値観が原因で社会が淀んでいる考えていたのだけど、最近は違う。何故なら左の中にもこの全体主義は存在するし、これは左右に関係のない問題だ。そういう価値観とは別の領域にある大衆主義によって「個」が埋没し、社会が腐りきってしまっているのだ。そう考えると、多数=是という民主主義の限界さえ感じる訳で、、、そこに歯止めをかけるという意味で、立憲主義という考え方の価値を改めて噛みしめている。
まぁ、個人的には、世間体ばかりを大事にして、外面ばかり取り繕って名誉や保身に拘る人間ってのは大嫌いだし、薄気味が悪くてしょうがない。「世間様を騒がせないことが日本人固有の真理」なのか、と(苦笑)そのような皮肉を書きたくなった。
要約すれば、日本人が何かしらお詫びをするのは、その原因となったことが「物事の真理」や「社会正義」に反するからお詫びするのではなくて、「世間様を騒がせたから」お詫びするのだ、という内容。つまり日本人は、「物事の真理」や「社会正義」に基づいて行動するというよりも、世間を騒がせないように行動することを優先する、と。そういう書き込みである。
私自身、日本人社会の中で、日本人の輪の中で一番違和感があって、特に生きにくさを感じさせるものが“世間様という価値観”だったりする。大相撲における「大麻問題」を取り上げてみよう。
大麻を吸うことが悪いのかどうか?
多くの人が違法だから吸ったら罰せられるとは思っていても、煙草と比較した場合の毒性も低い訳だし、どうして大麻だけがターゲットになっているのか?という素朴な疑問を同時に抱えているように思う。要するに、吸った本人も含めて大麻の吸飲が社会正義上、絶対悪であると考えていないのに、物事の真理として大麻の吸飲が悪であるという絶対的な答えを導き出せずにいるのに、それでも、大麻の吸飲で逮捕されるようなことに至れば、「世間様を騒がせたこと」に対して、世間様やマスコミはお詫びというような処置を暗黙の了解のうちに望む。
法律よりも、世間様を騒がしたことの方が重たいのですね、と。
この世間体を取り繕って、頑なに名誉を守ろうとする組織や人というのは、往々にして腐り始めていることが多い。中身に蛆がわき始めているからこそ、外面という世間体ばかりを気にするのだ。中身と外側が一致していればまだ良いのだけど、中身と外側の見たくれの不一致という問題は、日本のあらゆる組織において閉塞感をもたらしているし、不正を蔓延らせているし、社会正義の追求をおざなりにさせている。社会保険庁だってそうだろう。グリーンピアみたいなのをボンボン立ててた時に、あの外面に騙されて中身の腐り具合を追求せずに、世間様=国民はあれでヨシとしてきたから、あんなになったのだ。でもって世間様がみんなで悪い!と言い出せば今みたいになる。実に単純で気に入らない。
大麻の吸引が絶対悪であるということを証明し、だからこそ、事件を起こした力士は相撲界から消えろという論理を明確に構築できる人間はいるのか?いたらお目にかかりたい。個人使用が認められているEU諸国の存在がある以上、その時点でそれは不可能だろう。単に日本国内で違法なことをしてしまったというだけのことだ。そして、違法なことが必ずしも悪だという証明にはならない。例えば、医師免許のない人間が無免許で手術をして人の命を助けたとして、その人は法律に反したのだから裁きを受ける必要があっても、人の命を助けたのだから悪行をはたらいたとは言えないだろう。法律なんていうのはそんなものだ、一定の決まり事にすぎない。
そして、慣習というのもまた、その集団における、その時代における「みんなの平均的な意見」に過ぎないわけで、それをもってして、絶対的なものであると証明することは更に不可能だ。何故なら日本には大麻を吸引していた時代というのがあり、ましてや大麻は神事にも利用されていたのだから、時代時代によってコロコロ変わってきた大麻に対する日本人の考え方が絶対的な真理とは言い難いだろう。変わる可能性のあるものは物事の真理ではない。その時代におけるみんなの意見=慣習というのが如何に曖昧なものであるのか?証明しているようなものだ。
いずれにせよ私は、世間様、大勢が是とする考え、伝統的慣習。こういう不確かなものを大衆やマスコミが振りかざして、そこからはみ出した個人に謝罪を要求し、それを受け入れない人間をはじき出すような器の狭い集団主義根性っていうのが大嫌いだ。
アキバの殺傷事件でも、物事の真理を考えるのならご両親が本当に詫びる必要があったのは被害者自身と被害者の家族に対してであったはずなのに、先ずは第一に世間様に対して彼の両親は詫びた。三田圭子なんかも次男が覚醒剤でアフォをやる度にマスコミを通じて、世間様に対してお詫びしている。これは結局、彼ら自身が世間様からはみ出しては生きていけないから行っている保身行為に過ぎず、真の謝罪でもなんでもないだろう。相撲協会もまた、解雇・追放という処分を下さなくては世間様に対して立つ瀬がないと判断し、大相撲の名誉を保てないと判断したからこそ、解雇・追放という行為を通じて世間様に対して詫びたのだ。
最近思うのは、日本社会を覆っている窒息しそうなほど嫌な閉塞感の正体というのは、日本人自身が抱えている、「世間様」という独自の感覚ではないかと思う。
その世間様を意識して保身を行うことによって組織や集団はどんどん腐ってゆき、次々に不正や排除が生まれて真の社会正義は遠のいてゆく。こんなのは個人主義の社会でもなんでもない。以前の私は保守的な価値観や右的な価値観が原因で社会が淀んでいる考えていたのだけど、最近は違う。何故なら左の中にもこの全体主義は存在するし、これは左右に関係のない問題だ。そういう価値観とは別の領域にある大衆主義によって「個」が埋没し、社会が腐りきってしまっているのだ。そう考えると、多数=是という民主主義の限界さえ感じる訳で、、、そこに歯止めをかけるという意味で、立憲主義という考え方の価値を改めて噛みしめている。
まぁ、個人的には、世間体ばかりを大事にして、外面ばかり取り繕って名誉や保身に拘る人間ってのは大嫌いだし、薄気味が悪くてしょうがない。「世間様を騒がせないことが日本人固有の真理」なのか、と(苦笑)そのような皮肉を書きたくなった。
政治ポジションテスト外交編
ローカル指向のハト派。
前にやったことのある政治ポジションテストの外交編が出ていました。国内産業を保護すべきとは思いつつも、、、安いものを買ってしまいますからね。。。一応、ローカルに分類はされましたけど、その感覚が出たかなぁと。
前にやった政治ポジションテストもまたやってみたんで結果を貼っておきます。
リベラルかつ大きな政府を目指すタイプ。
ポリティカルコンパスドラフト3版、最新版になってたんでやってみました。
政治的な右・左度(保守・リベラル度)-6.8
経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派)-7.22
リベラル左派ってことでこれも変化ナシです。
モラル・ポリティックス
私の場合、制度としては社会主義者で、イデオロギー的には国際的な社会主義、とのこと。マッチする政党はなし、だそうです。
リバタリアン診断
邦訳もあります。これも変化ナシってことで左翼(リベラル)。
OKキューピッド・ポリティックス・テスト
これも結構面白いんですよね。
ちょっと長いのと英語なのですが、よく読めば分かると思います。アメリカ国民になったつもりで、教会への礼拝は靖国や神社仏閣への礼拝とか。そんな感じに置き換えてやるといいかもです。
グラフの左上にくる人はアメリカでは共和党支持者(保守)、ですね。左下が全体主義者です。左上でモロ左寄ってるのはファシスト。上中央が資本主義者。右上は更に個人主義的なリバタリアン。一番右のかどがアナキスト。右下からやや右上にかかってる広い層が民主党支持者、で、右下に位置しているのが社会主義者、です。私がアメリカに行ったら社会主義者に分類されるみたいです(笑)「FAMOUS PEOPLE」をクリックすると世界の政治家の顔が出てきます。
しかしよく分からないのだけど、アナキストが右下のカドじゃなくてどうして右上のカドなんだうか?アナキストはリバタリアンとは違う訳で、、、社会主義的な要素があるのにどうして右上の資本家の横にあるんだろうか。ここがよく分かりません。アメリカでは自分勝手な個人主義者の最たる者っていうイメージがあるのかなぁ。。。まぁ、アナキストは嫌われ者っていうことで、反社会的なテロリストっていうレッテルを貼りたいんでしょうね(笑)
ローカル指向のハト派。
前にやったことのある政治ポジションテストの外交編が出ていました。国内産業を保護すべきとは思いつつも、、、安いものを買ってしまいますからね。。。一応、ローカルに分類はされましたけど、その感覚が出たかなぁと。
前にやった政治ポジションテストもまたやってみたんで結果を貼っておきます。
リベラルかつ大きな政府を目指すタイプ。
ポリティカルコンパスドラフト3版、最新版になってたんでやってみました。
政治的な右・左度(保守・リベラル度)-6.8
経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派)-7.22
リベラル左派ってことでこれも変化ナシです。
モラル・ポリティックス
私の場合、制度としては社会主義者で、イデオロギー的には国際的な社会主義、とのこと。マッチする政党はなし、だそうです。
リバタリアン診断
邦訳もあります。これも変化ナシってことで左翼(リベラル)。
OKキューピッド・ポリティックス・テスト
これも結構面白いんですよね。
ちょっと長いのと英語なのですが、よく読めば分かると思います。アメリカ国民になったつもりで、教会への礼拝は靖国や神社仏閣への礼拝とか。そんな感じに置き換えてやるといいかもです。
グラフの左上にくる人はアメリカでは共和党支持者(保守)、ですね。左下が全体主義者です。左上でモロ左寄ってるのはファシスト。上中央が資本主義者。右上は更に個人主義的なリバタリアン。一番右のかどがアナキスト。右下からやや右上にかかってる広い層が民主党支持者、で、右下に位置しているのが社会主義者、です。私がアメリカに行ったら社会主義者に分類されるみたいです(笑)「FAMOUS PEOPLE」をクリックすると世界の政治家の顔が出てきます。
しかしよく分からないのだけど、アナキストが右下のカドじゃなくてどうして右上のカドなんだうか?アナキストはリバタリアンとは違う訳で、、、社会主義的な要素があるのにどうして右上の資本家の横にあるんだろうか。ここがよく分かりません。アメリカでは自分勝手な個人主義者の最たる者っていうイメージがあるのかなぁ。。。まぁ、アナキストは嫌われ者っていうことで、反社会的なテロリストっていうレッテルを貼りたいんでしょうね(笑)