否定と批判は違う。
“否定”というのは、「お前なんてのはいらない、不要だ」もしくは「間違っていてどうしようもない、なくしてしまえ」といった具合に、存在そのものを否定するということだ。それに対して“批判”というのは、「そこは直した方がいいよ、繰り返してはならない」であるとか、「誤っている部分は正していこう」といった具合に、間違っていたり不十分だった部分を反省してよりよくする為の苦言だ。
否定というのは容赦ない切り捨てであるが、批判というのは愛のある肯定だ。
賢帝は信頼して重用している臣下の「苦言=批判」を受けれて自己を正そうとするが、愚帝や暴君は、愛のあるそれを“否定”であると勘違いして、その臣下のことを遠ざけたり、牢にぶち込んだり切り捨てたりしてその存在を「全否定」する。要するに単純で誤解しやすい人間や、愚かな人間は批判を否定だと勘違いして反発してしまい、過剰反応して自分がされたと感じる否定をそのまま返すことになる。
歴史観の問題で保守派の人とぶつかるのは、この否定と批判の認識の違いである。保守派の人の多くは私なんかの“批判”を“否定”だと勘違いして、論争になることが多い。
例えば、戦って死んだ先祖=兵隊さんの死は無駄死にだったのか?それとも輝かしい死だったのか?
左派やリベラルが「死なせなくても良い命まで散らせたのだから、輝かしい死であるどころか、繰り返してはならないことである」、と。こう主張すると、彼らの死を無駄死に扱いされたような感覚に陥るのか?「先祖が懸命戦ったことによって今の私たちの生活はある。そのことを誇りに思うべきだ」という具合に英雄視しだす。そこまでならまだ良いのだが、更に妄想を膨らませて、左派やリベラルが兵士たちを全否定しているかのような論調でこき下ろすケースをよく見かける。
私なんかが言いたいのは、別に先祖を否定している訳でもなければ、戦って散った兵士達を貶めている訳でもなんでもないのだ。否定ではなくて間違っていた部分を批判し、二度と繰り返さないように苦言を呈しているのに、それを“否定”だと勘違いされて反日サヨク扱いされてしまうのだから、昔でいうのなら、愚帝が「けしからん!手打ちにしてくれる!」と叫んで乱心して騒いでいるようなものだから溜息しか出てこない。
この歴史観の問題については靖国を考えた時に浮き彫りになるような気がする。死んだ兵士だけではなくて全ての戦死者を追悼して鎮魂し、二度と繰り返さない為にも、靖国がかつての戦争で担った役割は無視できないという具合に過去を批判して苦言を呈している私らに対して、当時、「靖国で会おう」といって散っていった兵士たちの鎮魂の為にも神社を参拝したいという保守側の人たちがいる。この違いは歴史をみる視点の違いでもあり、私らが現代の視点から過去に対して苦言を呈しているのに対して、保守派の人たちの多くが未だに過去のままだ。
苦言を呈して批判をするということは「肯定している」ことが大前提であって、過去の肯定なくして批判も苦言も呈することはできない。つまり自虐でもなんでもないのに“自虐史観”だとか言われてしまうことについてはここ数年、いくら考えても理解できないし、どこが自虐なのか?まるで分からない。あの当時は一生懸命戦ったけれども、悪いこともしてしまった。結果、反省すべき点、繰り返してはならない点がある。こういう分析や検証がどうして自虐になるのか?まるで分からない。
自分が見えずに過去を反省できない人間というのは、幾度でも同じ過ちを繰り返すことになるし、それは、人間の集合体である国であっても同じだろう。
国が誕生してから現在にいたるまで、その悠久の歴史の中で誤ったことをしたことのない国など世界のどこを見回しても皆無だろう。あらゆる国が過ちや悲惨な過去を引きずっている。けれども、その過ちや暴走を反省して検証する姿勢があったからこそ、色々な発明や発展があったのだとも思う。人権というものの発明もそうだし、民主主義や立憲主義の発明もそうだろう。なのに日本だけが反省も検証もしないで自己肯定だけをしている様というのは見るに堪えないし、それは、人間として、もしくは国としての進歩を否定するようなものだ。
この日記は、歴史観が単純で見るに堪えない麻生氏が自民党総裁になったことに対する、祝辞である。一国の総理となる人間には、単純な自信などではなく、自己肯定するのと同時に批判を受け入れて自己反省ができるだけの広い器が必要であるし、少なくとも批判と否定の区別がちゃんとできる賢帝の資質を持った人であって欲しい。私は彼を否定するのではなくて批判する内容を書いたつもりなのだが、どうであろうか…?彼の政治的資質が、歴史観と同様でないことを祈る。
“否定”というのは、「お前なんてのはいらない、不要だ」もしくは「間違っていてどうしようもない、なくしてしまえ」といった具合に、存在そのものを否定するということだ。それに対して“批判”というのは、「そこは直した方がいいよ、繰り返してはならない」であるとか、「誤っている部分は正していこう」といった具合に、間違っていたり不十分だった部分を反省してよりよくする為の苦言だ。
否定というのは容赦ない切り捨てであるが、批判というのは愛のある肯定だ。
賢帝は信頼して重用している臣下の「苦言=批判」を受けれて自己を正そうとするが、愚帝や暴君は、愛のあるそれを“否定”であると勘違いして、その臣下のことを遠ざけたり、牢にぶち込んだり切り捨てたりしてその存在を「全否定」する。要するに単純で誤解しやすい人間や、愚かな人間は批判を否定だと勘違いして反発してしまい、過剰反応して自分がされたと感じる否定をそのまま返すことになる。
歴史観の問題で保守派の人とぶつかるのは、この否定と批判の認識の違いである。保守派の人の多くは私なんかの“批判”を“否定”だと勘違いして、論争になることが多い。
例えば、戦って死んだ先祖=兵隊さんの死は無駄死にだったのか?それとも輝かしい死だったのか?
左派やリベラルが「死なせなくても良い命まで散らせたのだから、輝かしい死であるどころか、繰り返してはならないことである」、と。こう主張すると、彼らの死を無駄死に扱いされたような感覚に陥るのか?「先祖が懸命戦ったことによって今の私たちの生活はある。そのことを誇りに思うべきだ」という具合に英雄視しだす。そこまでならまだ良いのだが、更に妄想を膨らませて、左派やリベラルが兵士たちを全否定しているかのような論調でこき下ろすケースをよく見かける。
私なんかが言いたいのは、別に先祖を否定している訳でもなければ、戦って散った兵士達を貶めている訳でもなんでもないのだ。否定ではなくて間違っていた部分を批判し、二度と繰り返さないように苦言を呈しているのに、それを“否定”だと勘違いされて反日サヨク扱いされてしまうのだから、昔でいうのなら、愚帝が「けしからん!手打ちにしてくれる!」と叫んで乱心して騒いでいるようなものだから溜息しか出てこない。
この歴史観の問題については靖国を考えた時に浮き彫りになるような気がする。死んだ兵士だけではなくて全ての戦死者を追悼して鎮魂し、二度と繰り返さない為にも、靖国がかつての戦争で担った役割は無視できないという具合に過去を批判して苦言を呈している私らに対して、当時、「靖国で会おう」といって散っていった兵士たちの鎮魂の為にも神社を参拝したいという保守側の人たちがいる。この違いは歴史をみる視点の違いでもあり、私らが現代の視点から過去に対して苦言を呈しているのに対して、保守派の人たちの多くが未だに過去のままだ。
苦言を呈して批判をするということは「肯定している」ことが大前提であって、過去の肯定なくして批判も苦言も呈することはできない。つまり自虐でもなんでもないのに“自虐史観”だとか言われてしまうことについてはここ数年、いくら考えても理解できないし、どこが自虐なのか?まるで分からない。あの当時は一生懸命戦ったけれども、悪いこともしてしまった。結果、反省すべき点、繰り返してはならない点がある。こういう分析や検証がどうして自虐になるのか?まるで分からない。
自分が見えずに過去を反省できない人間というのは、幾度でも同じ過ちを繰り返すことになるし、それは、人間の集合体である国であっても同じだろう。
国が誕生してから現在にいたるまで、その悠久の歴史の中で誤ったことをしたことのない国など世界のどこを見回しても皆無だろう。あらゆる国が過ちや悲惨な過去を引きずっている。けれども、その過ちや暴走を反省して検証する姿勢があったからこそ、色々な発明や発展があったのだとも思う。人権というものの発明もそうだし、民主主義や立憲主義の発明もそうだろう。なのに日本だけが反省も検証もしないで自己肯定だけをしている様というのは見るに堪えないし、それは、人間として、もしくは国としての進歩を否定するようなものだ。
この日記は、歴史観が単純で見るに堪えない麻生氏が自民党総裁になったことに対する、祝辞である。一国の総理となる人間には、単純な自信などではなく、自己肯定するのと同時に批判を受け入れて自己反省ができるだけの広い器が必要であるし、少なくとも批判と否定の区別がちゃんとできる賢帝の資質を持った人であって欲しい。私は彼を否定するのではなくて批判する内容を書いたつもりなのだが、どうであろうか…?彼の政治的資質が、歴史観と同様でないことを祈る。