死刑廃止問題でも何でもそうだが、自分サイドが少数の側だと疲れてくる。例えば欧州なんかと比較してしまい、日本はなんて人権意識の低い国なんだろう?なんだってこんなに一生懸命説明しても分かってくれないんだろうか?と。頑張れば頑張るほど疲れてくるし、それと同時に、自分自身や自分の考え方を分かってくれない人間に対する憎悪が芽生えてくる。その時に訪れるのが「ファシズムの誘惑」だ。自分に強大な権力があれば、であるとか、或いは、戦前の天皇制のような形で一君主の支配体制下において死刑が禁止されれば簡単なのに、と考えてしまう。こういう時、自分自身の中に巣くうファシストの資質にゾッとすることがある。何故なら異論を排除するのに有効な、最も甘美な誘惑であり、最も楽な“妄想”であるからだ。
そういう自分を醜悪だなぁと。そう思う。
特に大衆憎悪、大衆批判をする時に、このファシストという悪魔は私の心の中でずんずんと大きくなる。古くさい因習や道徳観を振りかざして私のことを支配しようとする世間様に対して、選挙の時にタレント議員に投票するようなバカな大衆に対して、或いは、自民による単調な一党支配を許している日本国民に対して、要するに今の日本社会によって心を傷つけられて絶望した時にこの悪魔は私の中で肥大化し、理性の殻を破って傲慢な産声をあげようとする。そして生まれ出た悪魔による支配を認めてしまえば、文字通り極左ファシストとなってしまう訳で、異論を認めずに暴走し、気にくわない意見や考え方をことごとく否定するようになるだろう。そう、昔のように。社会に対するアンチから左傾化していた昔のように。
私は最近、正反対の価値観の人間と繋がるようになり、仲良くなり、様々な対話や交流を繰り返すことによって、自分と違う考え方の人間がいる社会の方が、自分と同じ考え方の人だけがいる社会よりも好きになってきた。似たような人が多い社会よりも、色々な人間がいる社会の方が面白いし、楽しいと思うようになった。そういう意味で、以前、私の心に住んでいた悪魔はなりを潜めたのかもしれない。それもあって、似たような左派的価値観の人間であっても極端な人や、持論を振りかざして他者を潰すような人間とはぶつかるようになったし、そういう人間とは切れてきた。ここ1年半くらい間に揉めて切れた人間はみんなそうだろうなぁとも思う。
では私の中に巣くうファシストは消えたのか?
そうだとは思えない。何故なら、傍にいるファシストに対して厳しくぶち当たって排除してしまうのだから、ファシストを認めようとしないファシズム性というのを私は持っているし、その悪魔については私の心の中でずんずんと大きくなってきている。全体主義者を排除し、そうじゃない人間で脇を固める訳だから、多文化共生ファシズム(笑)ファシストを攻撃するファシスト性というべきか。残念ながら私はまだまだ不完全で、全ての価値観を許容できるほどキャパが広いという訳ではない。いつかはもっと広い心を持って、ファシストさえも許容できるようになればいいのだが、その為にはよほど広い心を持たないとダメだし、悟りでも開く必要があるのだろう。そうなれた時がアナキストとしてもっとも強くなれる瞬間だとも思う。まだまだ私は潔癖だし、キャパが狭い。
そういう自分を醜悪だなぁと。そう思う。
特に大衆憎悪、大衆批判をする時に、このファシストという悪魔は私の心の中でずんずんと大きくなる。古くさい因習や道徳観を振りかざして私のことを支配しようとする世間様に対して、選挙の時にタレント議員に投票するようなバカな大衆に対して、或いは、自民による単調な一党支配を許している日本国民に対して、要するに今の日本社会によって心を傷つけられて絶望した時にこの悪魔は私の中で肥大化し、理性の殻を破って傲慢な産声をあげようとする。そして生まれ出た悪魔による支配を認めてしまえば、文字通り極左ファシストとなってしまう訳で、異論を認めずに暴走し、気にくわない意見や考え方をことごとく否定するようになるだろう。そう、昔のように。社会に対するアンチから左傾化していた昔のように。
私は最近、正反対の価値観の人間と繋がるようになり、仲良くなり、様々な対話や交流を繰り返すことによって、自分と違う考え方の人間がいる社会の方が、自分と同じ考え方の人だけがいる社会よりも好きになってきた。似たような人が多い社会よりも、色々な人間がいる社会の方が面白いし、楽しいと思うようになった。そういう意味で、以前、私の心に住んでいた悪魔はなりを潜めたのかもしれない。それもあって、似たような左派的価値観の人間であっても極端な人や、持論を振りかざして他者を潰すような人間とはぶつかるようになったし、そういう人間とは切れてきた。ここ1年半くらい間に揉めて切れた人間はみんなそうだろうなぁとも思う。
では私の中に巣くうファシストは消えたのか?
そうだとは思えない。何故なら、傍にいるファシストに対して厳しくぶち当たって排除してしまうのだから、ファシストを認めようとしないファシズム性というのを私は持っているし、その悪魔については私の心の中でずんずんと大きくなってきている。全体主義者を排除し、そうじゃない人間で脇を固める訳だから、多文化共生ファシズム(笑)ファシストを攻撃するファシスト性というべきか。残念ながら私はまだまだ不完全で、全ての価値観を許容できるほどキャパが広いという訳ではない。いつかはもっと広い心を持って、ファシストさえも許容できるようになればいいのだが、その為にはよほど広い心を持たないとダメだし、悟りでも開く必要があるのだろう。そうなれた時がアナキストとしてもっとも強くなれる瞬間だとも思う。まだまだ私は潔癖だし、キャパが狭い。